女性が状態異常で男性は正常。

足立区の市長の発言をめぐる報道をチラリと目にした。

ゲイやレズのカップルしかいなくなると子どもが生まれないから滅びてしまう。みたいな発言でしたね。これ、かなり極端な仮説だけど、仮定の上では市長の言う通りです。別に変な事は言ってなくて、同姓カップルからは子どもは生まれないのだから滅びるでしょう。なのでこの発言を取り上げる意味は全くなくて、むしろこの発言の意図する部分が重要です。

たとえば、ゲイやレズのカップルが足立区に増えるのは喜ばしいが、同時に男女のカップルにも増えて欲しいから、これからは子育て世帯に優しい自治体としてさまざまなサービスを強化します。と言うのであれば何も問題ないはずです。要するに同性愛者を排除したい思いがあって、偏見や差別を持っていて、でも自覚はなくて、これは差別じゃないんだと。自治体が将来に迎えるリスクだと、自治体の存亡に関わる重要な問題だと正当化しているわけです。まぁでも明らかな差別ですから。

でね、仮にじゃぁ子どもが生まれない自治体だとして本当に滅びると思ってるのかな。若いレズやゲイの人が毎年入ってくれば別に良くないですか?なんで出生以外の方法で若者が出現しないんでしょうか。仮に一時期若者に人気のない自治体になったとしても、それで地価が下がれば若い世代や企業、分譲マンションの建築など多くの流入が起こるでしょう。なので同性愛者だけの街イコール絶滅というシナリオはあまりに幼稚です。

こんなオツムの人が区長なのが問題であって、この人の仮説に罪はないというのが僕の見解です。

さて、これは前置きです。本題はここから。

子どもの幸福度調査の結果から、どうも日本はあまりうまくいってないことが客観的に示されました。それは子育てを巡る情勢が各個人の範囲ではなく社会問題として取り上げなければいけないことを示しています。

つまり、夫婦仲の問題や子どもたちが抱える悩みが個人の問題ではなく社会の欠陥によるのだと判明したことを意味しているのだと思います。

ですから、現状でもっとも子育てしやすい環境を10としたとき、満点は20ですよ。くらいの感覚が必要なんだろうと思っています。古い体質の会社なんて存在できなくするくらいの強い覚悟が必要だと思います。

学校におけるイジメや協調ストレス、校則など。あるいは男性の育休取得なども重要な取り組みだと思うけれど、ボクはやはり甘いと感じている。認識が。危機感が。

これは夫婦の不仲とも関連することだけど、育休中の女性というのはゲーム風に言うとステータスが状態異常になってる人が多いと思う。一方で男性の状態異常はほとんどないと思う。つまり女性の精神状態に問題があって、男性は正常な状態なのだろうと思っています。で、重要なのは双方ともにそれを認識していないことにあるのだろうと思います。断っておくけど、夫婦の不仲は全て女性が悪いと言うトンデモな主張をしたいのではありません。

むしろ、女性だけが状態異常にならざるおえない今の社会って問題だよね。と言いたい。女性たちには今の社会では状態異常になるに決まってるでしょくらいの自覚や立ち位置から沢山の要求をして欲しいと思うし、男性は女性が一時的にナーバスな時期を送っていて、協力して乗り越える覚悟と理解が大切だろうと思うんです。

だからまずは、男女ともに認めるところから始めなければいけない。女性が状態異常で男性は正常なのだと。でもこれ世論の反発を受けそう。

インフルエンサー

インフルエンサー…フォロワー数や「いいね」の数が重要性を持つ時代、人気度が可視化されるようになって以来、メディアは積極的に彼らを起用して視聴率を稼ぐようになった。人気度をさらに増やしたい彼らにとっても芸能人と肩を並べて出演するテレビという媒体は魅力的だ。素人を用いたリアリティー番組は構図としてはこれらと異なるが、テレビの影響力で無名の野心的な若者を惹き付け、観る側は次代のスターの出現する瞬間を見逃すまいと視聴率に貢献する。芸能人の側でも自らのチャンネルを立ち上げてユーザーの獲得に走るようになった。

従来の既得権益を崩し、誰でも有名になれるチャンスが与えられ、またその手段へのアクセスも特定の人物や団体に収益が集まる構造ではなくなった点でとても評価できる。

芸能人のブログが圧倒的に人気だった10年前には考えられない光景だ。当時は結局のところ既に知名度の高い人がその影響力を増す傾向にあったと思うし、それは実際にステルスマーケティングというスキャンダルを生んだ。

花さんが亡くなった事で批判も多くあるが、有名になることと誹謗中傷を受ける事は残念ながら比例するものだ。そこのフォローまでテレビ制作の側に求めるというのはやりすぎではないかと思ったりもする。しかしながら制作は素人と知った上で起用するのだから、やはり手取り足取りフォローする責があってしかるべきだと思う。そのあたりのインフラが整っていなかった為に今回の悲劇が起きてしまったのだが、決して同じような被害を繰り返してはいけない。

でも僕はそれ以上に、人気度が可視化され、人間の価値があたかもフォロワー数によって決まるような風潮を資本主義が作ってしまったこと、人間を消耗品のように扱い、次々と浪費している現状に懸念を抱いている。

 

ココロノフシギ

10代の終わりの数年間、消し去りたくても忘れられない数々の苦い記憶が、次元装置のように突然、あるいはトリガーに触れた瞬間、生々しい心象を脳裏に呼び起こされる。そのような時、両手で頭をかきむしりたくなるのだが、実際にそんなことはしない。口角の一方を上げてしかめっ面になるだけだ。苦虫を噛む表情といえばいいのだろうか。

はじめの頃はそれで考え込んでしまったり落ち込んだりもした。取り返しのつかないことをアレコレと考えるのはあらゆる点でムダなのだけれど、それでも考えないわけにはいかなかった。もしかしたらそうした御祓のような行動がこれらの記憶を消し去ってくれることを期待していたのかもしれない。

現在に至って、未だに忌々しい記憶に悩まされているのだから救いがない。何年も繰り返し再生産されるうちに、これはある種の発作なのだろうと考えるようになった。大きく息を吸い込み、ゆっくりとそれを吐き出す時に、同時に肚の中に溜まった黒煙のようなものを吐き出して払うようにすると幾分気持ちが楽になった。

ところがどうゆうわけか最近になって、頻度が増したような気がするのだ。完全に消し去ることは不可能でも、次第に減っていくものだろうと思っていたので、ちょっとアテが外れてしまった。どうやら僕は敵を過小評価する傾向にあるんだろう。

おそらくこれは宗教の領分なのだろう。魂の救済とか主の赦しとかの類いではなかろうか。心療内科に行けば、もしかしたら病名がつくかもしれない。

だけど僕は誰にも赦されたくないし診られたくない。それはとても個人的なことだし、全ては僕が招いた業だから。なによりこれはとっくに過ぎ去った過去の話なのだから。

一つの仮説が浮かんだ。僕は僕の幸せを許せないのではないか。これまでに犯した事を忘れたのか、どれだけの人を悲しませたのか忘れたのか、そんなお前が幸せになるなど許されるはずがないだろう、俺はどこまでも追いかけて邪魔してやる、と憤っているのではないか。

信じられないかもしれないが、僕は幸せになりたいと思った事がなかった。自分の基に幸せが訪れるということが理解できなかった。ところが数年前、ふとした瞬間に気づいたのだった。僕も幸せになっていいんだ、と。

泣けてくる。

昨日、コロナ関連のニュースを観ていて、涙が止まらなくなった。

情けなかった。

感染の再拡大を止めることができなかった。

今や関東以外にまで広がっている。

愚かすぎる。

コロナ患者と向き合う医師や看護師は命を救うために懸命に働いてくれているのに、なんで封じ込めに協力できないのでしょう。

政治は終わってる、とっくに。何も期待できない。それはもういいよ、わかったから。色々とあるんでしょ、理解したくもないけど。

でもこの拡大は政治だけの責任じゃない、国民の一人一人にも行動の責任があるはずだ。

もちろん、移動制限の解除やキャンペーン、日々のアナウンスの与えた影響は大きかっただろうけれど、それでも強制力はなかったのだから、最終的な判断は我々国民に委ねられていた。

その結果がこれだ。この有り様。

命より大事な経済って何だよ。命より大事な仕事って何だよ。

誰かの命を危険にさらすかもしれないのに。

情けない。愚かすぎる。うんざりするくらいのバカな話がたくさん聞こえてくる。泣けてくる。

みなさんどうか言葉と笑いを大切になさってください。

名市大掲示板にひらがなで

「よいこのみんな  だいがくにあそびにこないでね」

って張り紙があってネットで話題になったというニュースを見ました。

こうゆうネタにコメントをするのってどうなの?って思います。

僕が当校の学生だったら掲示板を見て笑ってしまうと思う。

なんなら写メって友達に送ると思う。

「お前、来るなよ」とかつけて。

それで友達とワイワイ盛り上がるでしょう。

でも拡散するほど面白いかと言われれば…どうだろう。。。

まぁギリギリ拡散してもいいかもしれない。

でもまぁギリギリですよ?そんなにすっごい面白いネタじゃない。

それをね、みんながイジったところで決して面白くはならない。

むしろケガしてると思う。

それでも愛すべき母校がネタになったんだからとケガを覚悟で応援するならその心意気や良しとしましょうよ。

でも在学生や卒業生でもなければ、名古屋に行った事もない人がどうしてこんな微妙なネタに反応する必要があるのでしょうか。

この程度のネタはネットで見つけてもラインとか仲間内で消費しておしまいにした方が無難でしょ。

 

僕はこのネタに反応した人は木村花さんに誹謗中傷を送った人とあまり変わらないと思っている。僕の感覚ではコメントを書くに至るまでにいくつかの関所のようなものがあって、そのどこかのセクションで引っ掛かって、反応を抑制する。

僕にとってオープンな空間に発信するということは最大限の反応で、それは少なからずリスクが伴うからだ。この程度のネタでその危険は侵せない。

しかもイジりや毒舌の笑いは取り扱いが難しい。みんなで一斉に呪文をツイートしたり誉めたり感謝したりするのとはワケが違う。正しく伝わらないと意図した笑いは生まれない。

みなさんどうか言葉と笑いを大切になさってください。

一瞬でも何かに囚われて風から目を逸らせば、あっという間に吹き飛ばされてしまうでしょう。

言葉や思考、行動は無意識に誘導されるものだ。

価値観は絶対的なものでも不変的なものでもないはずだ。

それでも一人称で語るこのフレーズはほぼ最強のアイテムだろう。

自分という殻に潜ってしまえば、あらゆる問題に迷う必要がなくなる。

過去の体験や判断を根拠に、その延長のワタクシを決定してしまえば、

それがどれほど一考の余地がある事案であろうと、一蹴できてしまう。

「私はそう考える。あなたがどのように思うかは別として、それが私だ。」

 

僕は自己肯定感を否定するつもりはない。けれど何事もバランスというものがあるだろう。一人称思考は別の言い方で、繰り返しの論理とも言われる。

「嫌いなものは嫌い」とか「僕がやりたくないと感じるのだから、ぼくはやらない。(やりたくない)」などだ。

シンプルがゆえに最強かつ破綻のないフレーズだ。しかしそもそも、破綻のない論理を論ずる必要がどこにあるのだろうか?議論の余地がないのであれば、わざわざ会話のテーブルに置く必要があるのだろうか。そこで獲られるのは相手を納得させれたという快感だけだ。それすらも幻想なのだが。じゃんけんでウチの地元ではピストルって呼んでたグーチョキパーが合わさったのがあるけど、それを繰り出した友達は総じてウザがられた。

そう、最強論理はウザいのだ。誰だって快楽のための踏み台にはなりたくないものだ。

さてさて、この方向の話も好きではあるけど、今日投稿したかった内容は別にあります。ネットでの誹謗中傷や批判、企業内や学校でのハラスメント、いじめ、家庭内でのDVやネグレクト。

僕はこれらのニュースを聴くたびに、環境次第では自分も同じ行動を取る可能性をうっすらと気味悪く感じてしまう。もしかしたら気づかないうちに既に自分もおかしくなってしまっていて、ただ気づいてないだけなのではないだろうか。とか考えると恐しくなる。寄生虫みたいなもんだ。寄生虫に脳を支配されているのに本人は気づいてないような。

コロナ禍であらゆる行動や決断に正解がなくなってしまった。批判の波だけが漂い、人々を飲み込んでいく。感染者の特定や営業を続ける店舗への批判や中傷、看護師の子どもへのいじめや休校に伴う給付への批判。どれもまともな思考じゃない。さらに言えば検察庁法の改正批判や9月入学の賛否、緊急事態対応強化のための憲法改正などなど、政治的な賛否の意見は自由なんだけど、果たしてどれだけの人がちゃんと理解して発信してるのかと言えば怪しいもんです。怪しすぎる。

ちょっと前だけど、蓮舫さんが補正予算に関連して「国民の借金を増やすんだから丁寧な予算編成を」と謳った時に、ネットで「国民の借金じゃなく政府の借金」とか「国民は貸してる側であって国民の借金じゃない」「恣意的に世論をミスリードするな」と批判があった。でも実際はどちらも正解で、政府の借金なんだけど政府が返済に当てるのは国民からの徴税なわけで、批判はただの批判で意味がない。愚かさを露呈するだけだった。

価値観や判断は流されやすく振り回されやすいものです。だから今、どんな風が吹いていてどこに向かっているのかを感じた上で修正を加えつつ舵を取らなければ、決して目的の場所に辿り着く事はできないでしょう。風の吹くままに進んではいけません。逆に冒頭の話は風を考慮しない舵取りと言えそうです。考慮しなくたって風は吹いてるわけだから、これもやっぱり目的地には辿り着けません。慣性の法則を無視して生きる事などできないのと同じように自明のことです。

多様な価値観が尊重され、社会が一変する気配の漂う今日。我々は風に敏感にならなければいけない。一瞬でも何かに囚われて風から目を逸らせば、あっという間に吹き飛ばされてしまうでしょう。もっと注意深くならなければいけない。

法律の効果におけるメディアの責任

緊急事態宣言が全国に発令されたわけだけれど、けっこう意味ない。

そもそも緊急事態宣言には個人の行動を制約する権限はないのだから、可能な最大の権限は公共交通機関を止めて実質的に移動の自由を制限する事だ。

これだって制限するのは企業の経済活動であって、結果的に移動の自由を制限する効果があったとしても、そうは言わない。仮に政府がJRの運営を停止するよう求めたとして、後にそれが人権補償の観点から憲法違反だとして訴訟を起こしても一定程度戦えるとさえ思う。だけど政府は今のところこの権限を行使していないので、まぁ考えたって仕方ない。

 

にもかかわらず、連日この緊急事態宣言についてメディアが取り上げ、やれどこの自治体の長がこんなことを言っているだとか、街頭で緊急事態宣言が出たことへの意見をインタビューしたり、号外が配られたりしている。

ある長は政府からより協力な権限を与えられたのでウンヌン、、、一般人はもっと早く宣言しても良かったとか感染拡大を防ぐためには仕方ないとか。

繰り返しになるけど緊急事態宣言の法的根拠となる新型インフルエンザ等措置法には特に拘束力があるわけじゃない。なので自治体の長は何の権限も与えられてないし、感染拡大を防ぐような機能も持っていない。今、あまり話題になっていない感染症法のほうがより強い権限をもっている。なにしろ72時間の外出禁止命令が出せる上に罰金も取れるのだから。1月の時点でコロナもこの感染症法が適用できるように改正されている。

 

全く権限のない緊急事態宣言にも関わらず、国民の行動は大きく変容しています。これはひとえにメディアの効果ではないかと思います。まず1つめに、政府や自治体の長もそのことを良く判っていて、緊急事態宣言の発令で物事が大きく変わるような言い方で会見を開いたりしていて意図的に実像と違う姿を見せようとしていて、それをそのまま放送するものだから民間でさえも政府の広報機関のいうになっている。専門家の人が出て来て解説したりするのだけど、これまで行使された事のない宣言の解説などできるわけがない。だって前例がないんだから、専門家って意味すらよくわからない。

第2に騒ぎ立てて取り上げることで、周囲との同調圧力が強まってしまい、半ば強制的に身動きの取れない状況を作り上げている点。経営者や会社員、学生や主婦など様々な人のインタビューを取っているけれど、不確定要素しかない今の状況でコメントを求めたって評価のしようがないはずです。経済活動は継続すべきだと主張する人がどのような根拠でウイルスのリスクより経済活動の支持するのかも見えないし、今の状況ではお店は営業を自粛するべきだと主張する人も生活の糧を失った人への補償をどのように考えているのかが見えてこない。そうゆう状況の中でコメントするという事は、なるべく断言せず、批判されない答えに集まってしまうことを意味します。僕だってそうする。スポーツ選手や芸能人など立場のある人のコメントは一層そうだし、番組側だってそうゆう作り方しかできないはずだ。

 

こうしてなんとなく一人一人が最善のポジショニングをとった結果、社会の傾向としては中間ではなく保守寄りになってしまうのは必然といえます。だからこそメディアにはその事を自覚していただき、保守に傾かないような番組の制作をしてもらいたいところだけど、あまり期待もできません。

ただ、本来は力のない法律を根拠にシビリアンコントロールが実現してしまう事の恐ろしさは知っておいてほしい。助長というか、メディア自体が産み出し、政府のプロパガンダのような役割を担ってしまっている事を十分に理解しておいてほしい。

第三として、戦争を連想させる政府の発表をそのまま報道することで民衆に戦時下にあるという気分を作ってしまっている点を最後に挙げておく。災害という表現もできた中で戦争と表現する事で民衆は判断材料をまた1つ奪われた。滑稽かもしれないが、戦争と災害を対比したりして、戦争のような状態は戦争状態とは違いますよとアナウンスして欲しいものです。