それはたぶんもう戻らない

障害者施設での殺傷事件は史上稀に見る凶悪な事件だった。

生命の価値を身勝手に評価し、障害者は存在そのものが有害だと決めつけ、そして自ら施設に忍び込み、その手で多くの障害者を葬った。

人の命を身勝手に奪った犯人に共感など一切できない。

にも関わらず、このリアルな社会にはこのような思想が生まれ育つ土壌があって、無自覚に或いは確信しつつ、程度の差こそあれ、恣意的に生命の価値を評価する仕組みの中で、一線を越えてしまっている人が一定数存在する。

僕は全ての命を等しいと思う社会が正解だとは思わない。

自分の命よりも大切な命は子どもたち以外にはありえないし、生きるためには多くの生命を摂らなければいけない。だからそうゆうヴィーガン的な思想とはかけ離れているけれど、同時に自分のために他者が犠牲になっても一向に構わないと考えているわけでもない。

わりと一般的なんじゃないかと思う。

ただここには明確な矛盾がある。

人の痛みがわかる人になりなさいと教わるけれど、絶望的に他者の痛みに鈍いのが人間だろう。じゃないと社会はこんな風になってない。一定の振り幅の範疇で許容しつつ社会は営まれている。その振り幅を越える人がいて、それを全て当人の責任と問えるだろうか。

冒頭の事件は振り幅を圧倒的に越えている。社会の責任を割り引いても当人の異常性は明らかで、繰り返しになるが擁護の余地はない。

けれど同時にゆるやかに越える振り幅のずっと延長した先にあるのは間違いない。

スキャンダルを面白がる人と差別的な言動で他者をおとしめ嘲る行為は何が違うのか。マスクを買い占める行為と行列に割り込む行為と条例のない路上での喫煙行為は振り幅の範疇だろうか。

強くならなければならない。

弱さゆえの規律はもはや失われた。それはたぶんもう戻らない。

科学は善にも悪にもなる。