一瞬でも何かに囚われて風から目を逸らせば、あっという間に吹き飛ばされてしまうでしょう。

言葉や思考、行動は無意識に誘導されるものだ。

価値観は絶対的なものでも不変的なものでもないはずだ。

それでも一人称で語るこのフレーズはほぼ最強のアイテムだろう。

自分という殻に潜ってしまえば、あらゆる問題に迷う必要がなくなる。

過去の体験や判断を根拠に、その延長のワタクシを決定してしまえば、

それがどれほど一考の余地がある事案であろうと、一蹴できてしまう。

「私はそう考える。あなたがどのように思うかは別として、それが私だ。」

 

僕は自己肯定感を否定するつもりはない。けれど何事もバランスというものがあるだろう。一人称思考は別の言い方で、繰り返しの論理とも言われる。

「嫌いなものは嫌い」とか「僕がやりたくないと感じるのだから、ぼくはやらない。(やりたくない)」などだ。

シンプルがゆえに最強かつ破綻のないフレーズだ。しかしそもそも、破綻のない論理を論ずる必要がどこにあるのだろうか?議論の余地がないのであれば、わざわざ会話のテーブルに置く必要があるのだろうか。そこで獲られるのは相手を納得させれたという快感だけだ。それすらも幻想なのだが。じゃんけんでウチの地元ではピストルって呼んでたグーチョキパーが合わさったのがあるけど、それを繰り出した友達は総じてウザがられた。

そう、最強論理はウザいのだ。誰だって快楽のための踏み台にはなりたくないものだ。

さてさて、この方向の話も好きではあるけど、今日投稿したかった内容は別にあります。ネットでの誹謗中傷や批判、企業内や学校でのハラスメント、いじめ、家庭内でのDVやネグレクト。

僕はこれらのニュースを聴くたびに、環境次第では自分も同じ行動を取る可能性をうっすらと気味悪く感じてしまう。もしかしたら気づかないうちに既に自分もおかしくなってしまっていて、ただ気づいてないだけなのではないだろうか。とか考えると恐しくなる。寄生虫みたいなもんだ。寄生虫に脳を支配されているのに本人は気づいてないような。

コロナ禍であらゆる行動や決断に正解がなくなってしまった。批判の波だけが漂い、人々を飲み込んでいく。感染者の特定や営業を続ける店舗への批判や中傷、看護師の子どもへのいじめや休校に伴う給付への批判。どれもまともな思考じゃない。さらに言えば検察庁法の改正批判や9月入学の賛否、緊急事態対応強化のための憲法改正などなど、政治的な賛否の意見は自由なんだけど、果たしてどれだけの人がちゃんと理解して発信してるのかと言えば怪しいもんです。怪しすぎる。

ちょっと前だけど、蓮舫さんが補正予算に関連して「国民の借金を増やすんだから丁寧な予算編成を」と謳った時に、ネットで「国民の借金じゃなく政府の借金」とか「国民は貸してる側であって国民の借金じゃない」「恣意的に世論をミスリードするな」と批判があった。でも実際はどちらも正解で、政府の借金なんだけど政府が返済に当てるのは国民からの徴税なわけで、批判はただの批判で意味がない。愚かさを露呈するだけだった。

価値観や判断は流されやすく振り回されやすいものです。だから今、どんな風が吹いていてどこに向かっているのかを感じた上で修正を加えつつ舵を取らなければ、決して目的の場所に辿り着く事はできないでしょう。風の吹くままに進んではいけません。逆に冒頭の話は風を考慮しない舵取りと言えそうです。考慮しなくたって風は吹いてるわけだから、これもやっぱり目的地には辿り着けません。慣性の法則を無視して生きる事などできないのと同じように自明のことです。

多様な価値観が尊重され、社会が一変する気配の漂う今日。我々は風に敏感にならなければいけない。一瞬でも何かに囚われて風から目を逸らせば、あっという間に吹き飛ばされてしまうでしょう。もっと注意深くならなければいけない。