情報社会と盲目
病気もなく、老いも死もない世界には、ならない。
余命を宣告されてもされなくても、死なない人などいないし、
突発的に生命を断たれることもある。
だけど、やはり命が失われることは、その人のまわりを悲しくさせる。
仮に僕の息子が凶悪犯で何人もの罪のない人を殺害したために死刑となったとして、死刑やむなしと頭でわかってはいても、やはり比べようもなく悲しい気持ちになるだろう。
話が少し逸れたけど、一人の人の死が遺族やその周囲に与える無情さを想像し、あるいは記事などで疑似体験するとき、胸が張り裂けそうな悲しみを覚える。それはいつだってすぐ隣にある事態だし、常に多くの命が失われているわけだから、意図しているのかは別として、目を逸らしている事実だ。
コロナが終息し、各地で毎年追悼行事が行われていくであろう一方で、そんな事があったのはずいぶん昔だという様に、人々は日常を取り戻し、無邪気な消費の日々に埋没するのだろう。
マズローの5段階欲求を思い出している。
先進国は一時的に自己実現を抑制された社会を経験しているが、まもなく元に戻るだろう。でもこうした経験の後では、自己実現の意味が少し変わっているのではないだろうか。たとえば「安心して生きられる社会」へと。
コロナ以降、先進国の人々は忍耐強くなるかもしれない。
豊かさや体制の差違が「安心して生きられる世界」と比較して、どれほど重要なのだろか。公平さと平等とは必ずしも一致しないのだから、常に不満は起こるだろうし、その不満はもっともだろう。けれど先進国から沸き起こるであろうこの不満を乗り越え、耐えた後には、南米やアフリカでさえも人々が自己実現可能な社会を獲得できるのであれば、悪くない話だ。
目を逸らさずに、共感することができれば。
第三次世界大戦なのか?
各国のトップが戦争状態と表現している。
もちろん過去の大戦と違って各国が武器を持って立ち上がっているわけではないけれど、こんな強い言葉を連日メディアに乗せて発信すれば、国民の行動や思考が引っ張られてしまいます。
そういった意味で、戦争を知らない僕や多くの国民にとって、戦時下の人々がどのように考え行動するのかを実際に現在の状況として体験できるのはとても貴重だと思います。今現在、小学生以下の子たちは将来このウイルスが世界に甚大な被害を与えた事を学校で習うことになります。彼らに伝えていかなければいけません。
京都産業大学の学生が海外旅行で感染したために、大学に苦情の電話が殺到しました。自粛要請後も営業を続けているジムの扉を蹴って壊した人がいます。花見をしたくても周囲の目が気になって控えています。
一致団結して国難を乗り越えようと呼び掛け、あらゆる行動の自粛を呼び掛けられていても、一切の強制力はなく、あらゆる自由は保障されていて、その上で各人が自己判断で自粛を選択するものであって、自粛しないのはけしからんだとか、みんなで協力している時に貴様は何をしているのだとか、そうした圧力は明らかな人権侵害です。普通の時なら当たり前に尊重できる事が、今は非常事態だからという理由で正当化され、大義名分でも与えられたかのように正義を振りかざす人が現れている。
日本人は忍耐強く規律も守る国民性だから感染は終息に向かうという人がいる。そんなことはない。周囲からの圧力に従っていると説明するほうがよっぽど納得できる。
政府はそこまで知っていて意図的に戦争という表現を使っているのだろう。人々の行動に強い規制をかけることへの批判をかわし、また効率良く要請に従わせるために。
政府の自粛要請を受けて各自治体も同様の要請を発表している。企業も要請に応じる形で営業を自粛し、労働人口を削減している。みんな従う。従わなかった結果の感染拡大が恐いのか、感染拡大が起きた際の責任追求が恐いのか。おそらく後者だろう。それほど感染者を多く出していない自治体の長が緊急事態と言っているのだから。だけど、繰り返しになるが国民の権利を大きく制限する要請発表がなし崩し的に行われて良いはずがない。けれど世の中の人々はほとんどが気づいてないだろう。
僕は今、ある種の集団催眠状態にあるのだと思う。召集令状に従わない者を非国民と蔑み、戦争反対の声を上げる者を非難し、勝てるはずのない戦争に突入していった第二次世界大戦。自警団が結成され多くの朝鮮人が全くのデマを根拠に虐殺されてしまった関東大震災。これらの歴史を繰り返してはいけないはずだ。
2項道路って知ってますか?
家を建てるためには道路に面している必要があるんですが、定義として4m以上の幅がある道を道路と呼ぶそうです。4m以下の幅の道は「みなし道路」と呼ぶそうで、敷地が「みなし道路」に接しているとセットバックと言って敷地を削らないといけないそうです。
例えば道幅が3mの場合、道路になるためには1m不足しています。道の両側に敷地がある場合、両方の敷地が50cmずつセットバックすることになります。片側が川の場合は1mセットバックしないといけません。
というのが基本なんですが、両方の敷地が同時に家を建て替えるわけではないので、ややこしいんです。セットバックは同一敷地につき一回が原則です。じゃないと建て替え頻度が高い敷地が損をすることになるので当然ですね。なので、目の前の道が3mで既に向かいがセットバックしていた場合には、こちらは1m下がらないといけないということです。元々は2mの道幅だったということですね。
向かいの敷地がセットバックしたのかを調べる方法は市役所に行くことです。建築許可と完了の書類が保管してあって確認することができます。
さて、僕の場合ですが2項道路に該当する道の向かいは既にセットバックしていました。ところが僕は祖父が家を建てた時の建築許可の写しを手元に持っていて、そこにはセットバックと書かれていました。もちろん市役所の印鑑も押してあります。
もし両方の敷地がセットバックしているなら既に4mになっていないといけません。が、なってません。どうゆうことでしょう??
同じ書類が市役所にも保管されているはずですが、かなり古い時代でもあり、平成の大合併のゴタゴタもあり、そして登記を義務化する法案も祖父の家ができたあとのことであり、まぁ残ってませんでした。
なので僕は思いました。ウチは既にセットバックしていたが、役場に書類が残っていなかったので向かいが建て替える時に足りない道幅の半分を下がったけれど、本当は全部分下がらないといけなかったんじゃないかと。つまりウチはセットバックせずに家を建てれるんじゃないですか?と。
結論から言うとウチが足りない道幅分下がることになりました。敗北です。
焦点は祖父が本当にセットバックをしていたのかでした。というのも建築許可申請は出していたものの完了後の現地検査ができていなかったからです。つまり申請通りに建てたことが証明できなかったんです。まぁ古い時代では多いんですが。
それで現地を調査することになりました。すると敷地のすぐ横を用水路が流れていたことがわかりました。現在は上を覆って道になっているのですが、その水路から祖父の家が下がって建築されていればセットバックしたことになります。
バッチリ真横に建ってました。まぁ途中から薄々負けるだろうとは思ってましたが、自分から取り下げるのも釈なので調査してもらいましたけど、負けました。
負けたんですが、清々しい気持ちでした。法の元の平等と秩序は整然としていて気持ちが良いものです。勉強になったし楽しかったです。
2項道路、理論的には良いけど時間軸が考慮されてないためにトラブルも多いし、なかなか理想が実現しない。なかなか味わい深い法律でした。
3倍になれば187,5兆円
今回の新型ウイルスの封じ込めには今の社会の限界を感じます。
一部の国は人権を無視して感染拡大をなくそうとしてますが、日本などの民主国家ではまずできません。だから国民に外出を控えるよう呼びかけてるんだけど、穴だらけに思えます。
けっこう旅行してます。
このまま拡大しなければいいけど、こんなに出歩いてたら広まってもおかしくないと思うんですよね。終息してもそれはたまたま。ウイルスに対抗する効果的な対策とは到底言えないんじゃないでしょうか。
今回のウイルスもそうだけど、日本が火力発電を増やして海外から批判されても変えるつもりがないのも同じじゃないでしょうか。
世界全体の利益よりも自国の利益、社会の利益よりも個人の利益を優先させる資本主義経済の在り方では、世界が協調して危機を乗り越えるなんて不可能です。協力して克服しなければならない危機。
経済学の基本、「人は損より得、苦より楽を選ぶ」を前提に人々の行動を変えるためには、ここでは、人々が新型ウイルス発生に伴い経済活動や消費を控える行動を選択するためには、どうすれば良いか考えます。
経済活動自粛に伴う損失を保障しなければいけません。獲られたであろう利益を保障する事で会社は安心して自粛できます。それから公務員や会社員、事業者の収入保障。その上で社会を維持するために稼働しなければいけない職業の方には働いてもらわなければいけないので同じように収入保障を支払う必要があります。つまり全員に満額の社会保障を支払う必要があります。
消費ではすでに支払いを完了しているものやキャンセル料が発生するものは返金されるべきです。それは上で述べた損失保障で賄われているからです。
今回経験したマスクや消毒液の買い占めや転売、デマで踊らされて実際に商品が枯渇したトイレットペーパーやおむつ。愚かなことですが日本人のリテラシーなんてこの程度です。何かしら効果的な対策が必要でしょうが本稿では取り上げません。
要するに、有事に自国民を守るためにはベーシックインカムが効果的ということです。どうにか実現できないもんでしょうか。仮に全国民に毎月10万円支給すると144兆円です。でも収入に応じて減額されるからおそらく100兆円前後で落ち着きます。現在の年間の予算が100兆円ですから単純に200兆円の予算を組めば実現できることになります。現在の税収が2019年時点で62,5兆円。
景気が回復して3倍になれば187,5兆円。これならやる価値あるけどね。
こんなご時世ですが。
あれから、どんなデリバリーなサービスがあるだろうと思いを巡らせていまして、考えてるうちに「デリバリー」と「マッチング」は視点の違いでしかないんだなと気づきました。
Uberもメルカリも売り手から見たらマッチングなんだね。買い手目線だとデリバリーになるだけなんや。てことは出会い系にマッチングアプリってあるけどあれは売り手同士ってことか。
まだ存在していないサービスで思いつくのはデリバリーヘルスかな。デリバリーってついてるし。サービスを一元化すれば双方にメリットが大きい気がするね。サービス自体が既に存在するし単価が高いから実現してても良いはずなのに誰も作らないってことは色々難しいんだろうか。警察ににらまれそうだしね。
続いては生鮮食品。未だにスーパーには行く必要性を感じる世の中だけど普通に考えて一人一人がスーパーに買い物に行くのってあんまり効率が良いとは思えない。ネットで注文できれば交通量も減るし環境にも良いし、何より移動に使う時間を節約できる。それなのにスーパーに行きたがるのは使いやすいサービスがないからじゃないだろうか。
たとえばスーパーの商品棚にカメラを設置してフロアマップも作成して、行きたい売り場コーナーをユーザーがタップしたら商品棚の映像が写し出されて、スワイプすることで隣の棚に移動するとか。でたとえば画面内のトマトをタップしたら値段とか産地が表示されてカートに入れれるみたいな。
イオンみたいな大きなチェーンだと出来るんじゃないだろうか。これまでの営業でかかってたコストが大幅に削減できそう。
あとはユーザーにとって気になるのは配達までの時間と金額だね。移動コストがかからないから値段が標準くらいなら利用するんじゃないかな。水菜とかトマト、小松菜が120円とか。送料は払いたくないのが人情なのでそこは従業員の配置転換と各商品への転換で上手いことやってもらって。注文から二時間以内くらいが理想かな。
とまぁ考えてみたけど、いずれにしてもプラットフォームを作るのって相当の投資が必要なんですね。こりゃぁ金さえあれば一等地の土地を取得して貸し出して不労所得を手にできるってのと同じですね。
絵に書いた餅でした。
やっぱり真面目に働きます。こんなご時世ですが。
若い人のアイデアに触れてみたい。
2001年にベンチャー起業プランというのを作ったことがある。
僕が考案したのは、一人暮らしの学生に向けた朝食のデリバリー事業だった。ターゲットは学生の親で、せめて朝食はしっかり食べて欲しいという親の心理を狙ったものだった。年間契約で平日のみ。
マンション管理者と提携し、各部屋にポストを設置させてもらい、当該マンションに住む学生一人が1食注文するごとに50円バックをする仕組みを考えた。
あれから約20年。
このプランはまだ可能性があるのだろうか。
まず、今回このことを書くきっかけになったのは、この年のプラン全体に共通する感覚として「デリバリー」があったからだ。平たく言えば売れるところに商品を持って行って売る発想だ。優秀賞の受賞者のプランも移動式のクラブバーだった。事業形態は違えど「デリバリー」を強みと位置付けていたのだ。
近年、このデリバリーが主流となりつつあるように感じている。20年前と大きく違うのはアプリの存在だろう。それまでもデリバリーのサービス自体は存在したが、その方法は主に電話だった。ピザの配達やタクシーの配車など、いちいち電話で住所と名前を伝えなければならなかった。ヤフーオークションはインターネット上で交渉できたが決済は銀行振込のみで現在のようなクレジット決済ができなかったため時間もかかったし手間も要した。
つまり現在のインターネット環境がデリバリーの利便性を大きく向上させ、ユーザーは20年前に比べてラクに各サービスを利用できるようになった。
同時にデリバリーサービスは分業化しつつある。Ubertaxiはタクシー会社とマッチングアプリの連携だし、UberEatsは配達と製造すら分けている。
このように20年前とは大きく環境が変わり、それによって新たなビジネスモデルが生まれている。zozotownやフリマの躍進もテクノロジーの進化の寄与するところが大きく、最大の貢献は消費者のアプリサービスによる消費への抵抗感を取り払ったことだろう。
ただ僕は自分のアイデアを先見の明があったとは思わない。デリバリーがより拡大する事を良いとも思わない。おそらくまだしばらくは拡大するだろうし、それによって今よりさらに便利になるだろうけど。
むしろもうあまり面白くない。だって発想自体は20年前のもの。
今に立って、20年後に定着するサービスとは何だろうか。
若い人のアイデアに触れてみたい。
ちょっと考えてみる。
…………………。
無理でした。でも思い出した。
2002年に僕は友達に未来について話していた。
これから先、日本はルネッサンス期のように芸術が花開くんじゃないかと考えていた。そしてそれはまだ実現していない。
少し前、フォトジェニックが流行り、一億総アーティスト時代と僕は思った。でもそれはすごく迎合的だし平凡で暴力的だと思った。
今は一億総ネットワーカー時代。フリマで売って梱包作業をしたりバイトで配達員になったりする一方でユーチューバーだけでなくインスタやツイッターでみんなが情報を発信して人やモノ・サービスを発信する時代。
監視社会とまでは言わないけど他者の評価が価値を決めることに気味悪さを覚える。
宇多田ヒカルが自身のインスタで道に落ちてるものだけを上げているのをテレビで聞いたことがある。僕はその使い方に大いに共感する。
やはり非凡だなと思うと同時に、そんなインスタは見たいと思わない。
その一片を掬いとって完結させなければならない。
必要な言葉なんてどこにもなかった。
言葉にできるくらいのことしか記せないに決まっているだろう。
たいていのことは口にできて
たいていのことは伝わって
然るべき場所に収まる。
そうゆう類いのものじゃない存在は、
ただ存在することしか許されない。
敢えて言葉に換えようとすると
まるで連想クイズのようになる
「それはどちらかと言うとやわらかい」
「それはどんな場合にも二面性を持っている」
全体を捉える言葉はどこにもない。
小説は、物語はその形なき存在を明らかにする営みではなかろうか。
氷柱から美しいオブジェを出現させるように。
いよいよ物語が結ばれるとき、そこには最後の一片の氷が使命を果たすべき瞬間の緊張を帯びている。
作者は最後にその一片をまるごと掬いとって完結させなければならない。
最後には何も残してはならない。
わずかに冷たい空気が残されて、それも間もなく周りに溶けていく。
過去の記憶でも未来への予感でもない。
その瞬間にのみ生まれる類いの存在が確かに在る。